第五回 「注ぐる」中編

中学1年生の夏前。夕方を呑む川沿いを歩いていると偶々小学生の頃の先生が自転車で通りがかった。

その先生は非常勤講師で担任でもなく授業も受けたことが無かったのだが、弟の算数の先生であり「ポケモンがめっちゃ強い」という話だけを聞いており何となく気になっていた。
そんな小学生高学年のある日、私は図書委員で栞作りをしているとその先生はフラッと現れ独特な高めの声で「このゾロリって人間なの?動物なの?」と突然聞いてきた。

((・・・は?))

なんだこの変な人は、と当時の私は面白がるようなリアクションを内心でとってしまい「いや、普通動物じゃないですか?」と答えた。当たり前じゃんという空気の孕んだ答え方であった。
しかし、言い放った直後((いや100%そうとも言えないよな・・・))と先ほどのスタートダッシュしてしまった自分の発言に正反対の自分の感情が追いつこうと走っている様な感覚がしたことを覚えている。
「なんで?言葉を話すんだよ?」と先生は言った。

自分のその時取った態度というか感情というか、何か罪悪感と何か失礼なことした気がするなあ、と思い出す度に理由のわからぬモクモクに苛まれた記憶がある。

普通。当たり前。

その一件があった後、偶々掃除場所の担当がその先生になり私はそこで初めてポケモンの“種族値“というものを知った。それから私はその変わった先生にふざけてちょっかいを出すようになり担任の先生に注意され、何となく距離のあるまま卒業した。

川沿いでの再会はそれ以降であり、話した後何故かそのまま先生の実家へ行きスマブラをした。
先生は滅茶苦茶に強かった。

それからの夏休み、私は先生の部屋に足繁く通った。
MOTHER2を初めてプレイし、土曜にジャンプをフラゲし、海外向けのE3を解説してもらい、低予算ホラー映画を観て、「告白」の読書感想文を書き、意味の分からないこと、気になることを聞いて、話した。

話は少しズレるが、当時DSiで「うごくメモ帳」というパラパラ漫画が描け、それをオンラインで公開できる今で言うアプリでよく遊んでいた。(もはや青春)
私の世代で結構多いと思うのだが、私自身もこのうごくメモ帳、略して「うごメモ」を通してボカロや二次創作といったヲタの世界を知っていった。

うごメモには毎月事にテーマが発表され、入選するとその掲示板に掲載され、色付きのスターをゲットできるというコンテストのようなものがあった。
何回か挑戦するも一度も選ばれることは無かった。
しかしその先生は何度か掲載され、ついにはインタビューを受けていた。
私はそれをDSi越しに知った。

『アイスクリームシンドローム』をDSiサウンドで再生し、レンタル屋で買った安いイヤホンで耳を塞ぎ、陽炎を全力で先生の部屋までペダルを漕いだ。

「インタビュー見たんですけど‼‼‼‼‼」と勢いよく開けたドアの向こうに鎮座する先生はいつも通り平然としていた。
((こ、これがインタビューを受けた人の佇まいか…))とかっけぇと思った記憶がある。
そこに嬉しさはなさそうだった。

そんな先生が「これ読むと良いよ」と貸してくれた漫画が「バクマン。」であった。漫画家を目指す二人の主人公の話である。その漫画は私を形成する大きな一つとなった。
直ぐに影響されてしまう私はGペンやらホワイトやらを少ないお小遣いを駆使して集めた。
当時「おれはアナログ派」と主張しコピックを使っていた。(あの時はリボーンを否定して悪かった…)

それにしてもコピックは、くsssssssssssssssssssっそ高い。
高いよ!!!!
中学生には高すぎたが、おこずかいを叩いてE00あたりから集め出して描き始めた記憶がある。
結局使いこなせるところまでは行かなかったが、その頃からずっと机の上を漂う様な人間となった。

そして中2の頃から私はギターを始めた。
より身近なモクモクをその本人に合う言葉で言語化できる人へ憧憬の念を抱くようになった。
音楽と絵をやるぞ、と描いた漫画を友達に見てもらい、初めて作った曲はうごメモに投稿した。(ブラックヒストリー…)

しかし、小さい頃からディズニーやポケモンやシュールなオリキャラばかり描いていたため、私に人を描ける才はないな、とある時パッと諦念が生まれ、絵を描くこと自体をやめてしまった。
先生ともそれから何となく会わなくなり、高3の時すれ違って以降連絡も取れていない。

ゾロリって人間なの?動物なの?

握るGペン越しに壁に掛かった時計を見る。すでに陽の落ちた頃合いであった。
時計の周りには小島氏の選んだ思い出の品がズラリときれいに配置されている。
目の前ではクシャクシャになったスガキヤラーメンの袋が天井の灯りをきつく疎らに反射させており、集中から戻った。

「Gペンむっず」と独り言ち、Appleペンシルに持ち替えiPadの上を走らせた。
すまん、あの時のおれよ、あたしゃあもうデジタル派ですわ。
私はここ数年でまた絵を描くようになった。

2、3年前、依頼するのもお金かかるし…といった理由でバンド周りの絵は自分で描くようになった。ジワジワと描くことを復活させていった。
絵を描くことはやっぱり楽しい。

前作までのジャケは完全に内向きであり内向きな作り方であった。
それもあって今作は、ちゃんと伝える気持ちを宿したモノとして挑戦してみたかった。
「内」を如何にして外に結び繋げられるかの挑戦。もっと言えば外の人に。

自主制作盤も含めると今作は3作品目にあたるもので、毎度ジャケにその時折りの我々の状態を宿した「ヤグラ」を描いてきた。
2019年の1枚目は、メンバー其々好きなモノを乗せたヤグラが4つ行進しているジャケ。
同じ年の秋に出た2枚目は、ドラマーが変わったということから、1つのヤグラが壊れながらも空を飛んでいるジャケ。
それから2年経った今作は、墜落したヤグラのジャケを描くことにした。それを切に、ポジティヴに。

それから最近読んだ漫画の好きなイメージを連想させ、構図というものを少し考えてみようとペラペラとアートブックを捲り、光のニュアンスをハーフトーンで試してみるかぁなどと考え試した。
(今作はキャラクターを使わない、いつも使わない色でつくるなどと自分への縛りもあった)

擬態を抜いた自分のイメージを如何に伝えるモノとして描けるか。
そして、ぱっと見でも何となくビビビを感じてもらえるようなジャケにできるか。
またしばらく集中の中を漂った。

ガチャッと音がする。ひさしぶり!とHさんと小島氏が帰宅した。
その段階であらかた完成していたため「ジャケ、一応できたんすけど…」と靴を脱いだ二人の方に恐る恐る画面を向けた。

(さらにつづく)